相手への批判が自分の首を絞める

コミュニケーションが容易に取れる今の時代。インターネットが普及したからだろうか。物理的な人との距離が縮まりLINEやSNSなどを通じ簡単にやりとりができるようになった。オンラインのメリットの1つは出会いと繋がり。オフラインだけではあり得なかった出会いや繋がりが出来ることがあげられると思う。

だけど、この容易にコミュニケーションが取れ、今まであり得なかったような出会い・繋がりができることは良いことばかりではない。会って話すことで掴むことが出来る、人との距離、そしてコミュニケーションの取り方がオンラインではなかなか分かりづらい。相手がどういう人か分からなくても、オンラインでは情報をやりとりできる。やりとりの内容が相手の意見に同意することであれば、はじめてやりとりする人であっても問題はないかもしれない。やはりここで問題になるのは批判だ的なことを発信するとき。

最近、特に声の大きい人が多くなったと思う。声の大きい人が目に付く、批判が強く目立つようになったのもインターネットが普及してからではないだろうか。

批判は昔から潜在的に色んなところにくすぶっていたのだろうけれど、インターネットがそのような批判的なものの蓋を外してしまったのかもしれない。

何故、そんなことになってしまったのか。まず、いまのインターネットは容易に情報を得ることが出来る。いまは検索すれば誰でも情報を手に入れられる時代だ。だから概要だけを把握するのは何処でも誰でもすぐに出来るし、ピンポイントの話題だって調べられるものも多い。しかもすぐにだ。検索ということを通してまるで自分が知っている、分かっているという気になることができる。

そしてどこかで誰かが発言したものを目にしたときに、インターネットで調べて得たにわか知識を得た誰かが批判しているという構図が生まれている。専門家が必ず正しいとは限らないが、それにしても誰かが発言すると、必ずと言ってもいいほど批判の声も多くあつまる。そんな光景を見たことがある人も多いのではないだろうか。

だけど私はその事を見てあまり気持ちの良いものとは思えず、これからの日本のことを考えたときにマイナスに働いていきそうで恐いと思う。

あなたは、突然、知らない人から批判されたらどう思いますか?そしてその批判をすぐに真に受け、自分の意見をただしますか?

もし逆にいま、あなたが批判している立場だとしたら、批判することによって得たい成果はなんですか?

私も若い頃、相手のことを正論で論破するようなことをやってきた。結局そのやり方では、人も物事も動かなかった。なぜなら理屈だけで人は動かないから。まして批判されて動いたのは、おそらく面倒だったり、恐怖したり従わせているだけで、その人が納得して動いている訳ではないことが多いのではないかと思う。

自分は何かを成し遂げるために間違っていることを正してよりよくしたいだけだったのに、相手は批判されることによって萎縮して全く成果からほど遠くなるなんてこともザラというのが現実世界。結局、批判すると自分の首も絞めてしまうことがある。それを分かった上で批判しているならまだいいと思う。ただ、もし今までのパターンとして間違ったことを批判したけれど、自分の得たい成果に十分にたどり着いていないと感じているのであれば、批判することによって達成に近づけるのか考えた方が良い。

現実に起こっていることとして、子供達の学校教育の現場は、一部の親の大きな声が批判が反映したことにより残念な形になったと私は思っている。先生の一部は怒られないよう、クレームが発生しないように仕事をしている。そうなってしまった先生を責めることはできない。そんな先生にしてしまったのは、先生への尊敬の念を忘れ、批判をした私たちの過ちではないかと思う。果たして親の顔色を見て仕事をしている先生に、子供の教育が十分に出来るのだろうか。もっと、親は先生を信頼して子供をお願いすることで、子供にとって良い面が増えるのではないか。

色々な情報を容易に手に入れられる世の中だからこそ、情報の格差はある程度縮まり、それよりも必要なのは人との接し方、伝え方、考え方などの人間力ではないか。その人間力を上げて行くことが日本にとって大切なことなのではないかと個人的には思う。

人から批判されたことで自分が良い方向に変わった経験はありますか?

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